★お気楽日記★

アリとキリギリスでは断然キリギリスです。 うさぎとかめなら、確実にうさぎです。 でも跳ねる趣味はありません。

「絢爛豪華 祝祭音楽劇 天保十二年のシェイクスピア」の感想⑩(シーンごと)

その⑨からの続きです。

 

23.鏡

墓場のシーンから代官所の一室のセットに変わります。舞台上がまだ暗い中、第三形態に進化した代官の三世次が登場しているのを必死に双眼鏡で見る私。(第二形態はるんるんで出てきたから、代官にまでなってさぞかし嬉しかろうと思うと、第三形態は一転、なにか物憂げな感じのみよたんです。毎回ここのみよたんが何か所在無げにたたずんでいて気になりました)

髪型が、今までのボサ髪をルーズにまとめた手塚治虫キャラから、さらさらロングストレートでこ出しに変わり、着物は代官に相応しくゴージャスな金に黒が入った羽織に。(あのボサ髪はお風呂入ってない象徴だったんですか?じゃあ、におったりしたんですか?白檀の香りですか?←)

そしてセットの箱は代官の屋敷の一室になります。上手側に文机に座る代官三世次、帳面(出納帳?)とそろばんとお饅頭が3個置いてあり、下手からおさちが三世次にお茶を入れて持ってきます。下手の隅には朱色の着物がかかったもの(大きな鏡)が置かれています。

お茶をどうぞというおさちに、どういう風の吹きまわしかと驚く三世次。なぜならおさちを妻にしてからだいぶ経つのに、今までお茶を入れてくれたこともなかったからです。戯曲ではここで、百日間お茶を入れることもなかったことと、おさちが三世次に肌を許していなかったことが示唆されています。

戯曲を読んだ時に疑問に思ったのが、三世次はお光のことは手篭めにしようとして拒絶されたら殺してしまったのに、どうしておさちには百日間も手を出さなかったんだろうということでした。

しかし、これは落ちついて考えると(今回の三世次には特に顕著なのですが)愛情に飢えた高橋三世次は、酒樽の口説きの場面でおさちが自分を受け入れてくれたと思いこみ、そうなると無理に手を出したくない、嫌われたくないという気持ちと、おさちが受け入れてくれたことによって自己肯定感が高まった(自分なんかどうでもいいやと投げやりにならない程度に)のとで、すっかり(おさちに対しては)いい子になっちゃったんですね。他人なんて自分の相対化の世界の駒でしかなかったのに、人を尊重するようになってしまった。ここで三世次に(今まではなかった)良心が芽生えてしまったのかもしれません。

そして、お茶を入れてくれたことが、おさち的YES/NO枕のYESだと解釈する三世次(なんでや・・・)。やっとその気になってくれたんだなとテンション上がっているところに、手付が百姓が陳情に押し寄せているという一大事を告げに来ます。しかしおさちのことで頭がいっぱいの三世次は、邪魔するなと算盤を投げつけて手付を追い返します。

三世次が「その気になってくれたんだな」とおさちの顔に手を伸ばし、それをニコニコして拒絶しないおさちなのですが、この後の流れを考えると、ほんと、この子怖い子だ・・・。

三世次がおさちに「その気になってくれた」と話しかけ、そこに手付が暴動の報告、じゃまするなと算盤やら茶碗やら饅頭を投げつけるというコメディタッチなシーンを繰り返した後、「俺とひとつ布団に寝ようと決心してくれたんだな」と三世次が言うと「違います」とバッサリ切るおさち。そしてお見せしたいものがありますと言って鏡を三世次の前に持ってくると、「あなたは自分の醜さをご存じない。でもこれからそれをたっぷり見せてさしあげます」「俺が醜いだと?そんなはずはねぇ。金はある。しかも代官。おめぇは俺を殺せなかった。つまりは俺に惚れたんだ。その俺が醜いはずはない」「あの時あなたを殺すことはできました」「嘘をつけ!」「でもあなたの下手人には金輪際なりたくなかった。あなたは殺す値打もない」と、ばっさりおさちに捨てられるみよたん・・・。みよたん半泣き。おさちのバカ!(みよたんのモンペより)

おさちは「あなたを殺す殺し屋はあなたしかいない」と言って鏡を覆っていた着物を取ると「あなたの心の中はもっと醜い」と追い打ちをかけます。ここでの音楽はおさちが一幕で歌った「私の胸」の曲のアレンジ。「私の操は夫以外には渡さない」という決意表明。

私は自分におさち要素が全くないので、ほんとこの子すごいなあ、夫と妹の復讐するために仇の妻になるとか、私には絶対無理だわと思いました。結果的に肌を許さずいられたけど、普通妻になったら同衾しないといけないだろうし、そういう覚悟があって妻になったのかしら? それとも全てを読んで、三世次が自分に嫌われたくないから無体なことはしないと思ったのかな? 

そもそもあの夫(茂平太)のどこがいいのかわからない(笑)。おさちのことは大事にしてそうでしたが、女性が彼に惚れる要素は彼の地位を除けばゼロだし。茂平太に触られて嫌悪感を表わしたお光と間逆で、おさちは自分の暮らしの安定のためなら体を使うことにためらいはないのかも。(それが生きる術とも言える)

だんだん記憶があいまいになってきました(早くブログ書かないから)。鏡の覆いを取り去ったタイミングだったかな、背景の箱がまた建物のようになっていて、そこに今まで三世次が命を奪う原因を作った死人たちが箱の一階、二階に収まるように(扉部分に交互に)たくさん並んで立っています。これは「リチャード三世」の、リチャードの夢枕に亡霊たちが立つ場面がモティーフ。

「リチャード三世」では夢から覚めたリチャードは混乱したモノローグで「俺は何を恐れている? 自分か? リチャードはリチャードを愛している。人殺しでもいるというのか? 居やしない。いや俺がそうだ。じゃあ逃げるか? 自分から? 自分に復讐されないようにか? え? 自分が自分に? 俺は自分を愛している。なぜだ? 何か自分にいいことでもしてやったか? とんでもない。俺はむしろ自分が憎い。自分がやったおぞましい所業のせいで! 俺は悪党だ。嘘をつけ、悪党じゃない。俺の良心には千もの舌があって、どの話も俺を悪党だと非難する。絶望するしかない。俺を愛する者などいやしない。俺が死んでも誰ひとり哀れに思ってくれやしない。あたりまえだ、この俺自身、自分を哀れに思う気持ちなど微塵もないのだから」と言いますが、三世次もこんな心境だったのでしょうか。そしておさちが差し出した鏡は良心でもあるのか。

三世次は鏡(良心)に映る姿に耐えきれず、鏡を割ってしまいます。そしてその破片で喉をかき切って自害するおさち。

「おさち!」とショックを受ける三世次可哀想・・・。おさちのことは本当に好きだったんだね。おさちに駆け寄ろうとしたところに百姓隊がやってきて甚兵衛を斬ってしまったことを責めます。

隊長に「お代官様だって虫けらでしょうが!もとをただせば父親はこの清滝の抱え百姓ではねいか。だからお代官様にはおれたちの気持ちがわかってくださるはずだと思ったが」と言われて「わからねえと思っているおめえたちの気持ちはわからねえことはねえが・・・(略)」と、わからねえを連発して何を言ってるのかわからない混乱した台詞を言います。(これ覚えるの大変だったろうな)

なんとなく中島みゆきの「世情」感。「変わらないものをなにかに例えて、その度崩れちゃそいつのせいにする♪」百姓たちも三世次が自分たちと同じ抱え百姓の出だからって、勝手に希望を託して、その通りにならなかったからと責めるんだなあ、と。

先ほどの亡霊たちが立っている建物の箱ですが、亡霊の居ない部分が鏡張りになっていて、観客席が写り込むようになっています。(藤田さんの好きな、観客を使う演出)観客も同じく三世次を責めている、でもそれは勝手に誰かに希望を託して裏切られたと言っているだけなのかも、観客も良心である鏡を覗き込んだ三世次のように、自分の良心に問いかけないといけない、そういう意味なのでしょうか。ポスターで三世次は十字架を背負っていて、これは人間の原罪を背負って死んだキリスト=三世次ということなのかもしれません。

三世次のことがわからないという隊長を斬り捨て、三世次は百姓の前から逃げます。そして逃げた先は建物の屋根の上。屋根の上などという逃げ場のないところに逃げずに地上を走ってどこかに隠れたらいいのに、上を目指したのは、一幕の討ち入りのロミジュリ的場面で、天から蜘蛛の糸のようにロープが降りてきた記憶があったからなのかもしれません。(みよにゃんこが不思議そうに何度も見上げていた)

屋根の上で百姓に囲まれながら「鏡の中のおれを殺したおれ、抱え百姓を斬り殺した抱え百姓のおれ。すると死ぬのか、おれは?」と老婆の予言に思いあたり、自嘲します。自嘲なのか、やっとゲームオーバーという安堵なのか・・・。

そして「馬だ馬を持ってこい! ここから、いや、この世から抜け出すには馬が、それも羽根の生えた馬が要るんだ! 持ってきてくれた者にはなにもかもやるぜ。馬だ! 天馬だ!」と言って、百姓の槍にさされ、屋根から向こう側に落ちて暗転します。

この世から抜け出したかったんだね、みよたん・・・。「王国をくれてやるから馬をよこせ!」というのがリチャード三世の最期の台詞ですが、三世次の台詞もここから取られています。そしてリチャード三世の台詞の馬と王国が対価というのも、リチャード三世にとって王国は望むものではなかった(王権が欲しくて悪行を行ったのではない)、自分が不具に生まれた運命への怒りと復讐こそが原動力で(王権は副産物)、最後まで(運命の理不尽と)戦うために馬が欲しかった(命を守るなら戦場から逃げ出せばよい)と解釈している解説を読んだことがあります。一生さんが三世次のことを「死にたかった人」と言っていましたが、二幕の花見の場面ラストでお冬の死に憧れていたかのような三世次は、ここでやっと死ぬことができたわけですが、天馬は迎えにきたのかな・・・。

 

24.墓場からのエピローグ

三世次が屋根から後ろ向きに転げ落ち暗転、その余韻に浸る間もなく(浸らせず)、明るいエンディングが始まります。三世次を責めるかのような亡霊が立っていた扉から、登場人物がみんな頭に三角巾(天冠)つけて幽霊になって出てきて「もしもシェイクスピアがいなかったら」の歌を明るく歌います。斬られて舞台中央で死んでいた隊長も起き上がって天冠を頭に結び、おさちはお光の扮装になり幽霊に、三世次は代官のお着物に髪型が第一~第二形態のボサポニーテールで出てきます。お化けポーズが可愛い。

初日は着物の左足の方の裾をからげて、おみ足を披露してくれたみよたんなのに、その後そのサービスなくなったので、あれは初日特典だったのでしょうか。

隊長が「このお芝居が成立したのも皆さまの想像力のおかげ」とお礼を言いかけ、「一つだけ未消化の作品が」と客席後方を指し「あれは月である。しかし満月ではない。今夜がちょうど十二夜」と言ってまとめます。

またシェイクスピアの歌が始まり、みよたんは上手サイドを、王次は下手を客席降りしてぴょんぴょん跳ねながら(というかキャストの皆さんみな客席降り)一階最後列まで行き、一番後ろでみよたんと王次はいちゃこいてました。

で、一回暗転してからみなさん舞台に戻られます。舞台に戻った時には、三世次ではなく高橋一生になり、カーテンコールをされました。

(初日は特にカテコの後、一人舞台に出させられて、もじもじしながら袖からほつれた糸をいじって、最後糸をぶちって切ってたのが可愛かったです)

この三世次の死からすかさず明るいエンディング、宝塚で言うところのシャンシャン?になるのはとても良かったです。三世次の死で引き摺られず、気持ちが落ち込まなくて済む感じで。(それだけ高橋三世次は見る人の同情を呼ぶ三世次だったなあ)

また、異端の存在だった三世次が、エンディングではみんなと仲良く幽霊になっていたのが、「お友達がたくさんできてよかったね、みよたん」とほっとしました。

 

文章を書くのが苦手でだらだら書いていたら、もう一カ月以上経ってしまい記憶がだいぶ薄れてきて悲しいのですが、(これも書こうと思っていたことだいぶ忘れてる気がする!)これで天保十二年のシェイクスピアの振り返りは終了です。

早く円盤発売されないかな・・・。(円盤見たら私の記憶違いがたくさん発掘されそう)

mall.toho-ret.co.jp

(あと、なるべく早く再演が観たいったら観たいです!)