★お気楽日記★

アリとキリギリスでは断然キリギリスです。 うさぎとかめなら、確実にうさぎです。 でも跳ねる趣味はありません。

「絢爛豪華 祝祭音楽劇 天保十二年のシェイクスピア」の感想⑥(シーンごと)

その⑤から続きです。

 

二幕

一幕の開始と同じように、着物姿の女性が両サイドに出てきて後ろ向きに立ち、字幕モニターを下からめくる仕草をして始まります。(のんびり休憩気分だと、急に始まるので焦る)

 

15.間違いつづきの花の下

(この場面、ほんと考察すべきことが山盛りで(これだけで3000文字くらい行きそう)特にラストの三世次のお芝居とか毎回ずっと表情を双眼鏡で見てました!とにかくすごい場面です)

舞台は桜の木々をバックに、幔幕が張られ、幕の中がお花見の座敷となっています。私はほぼ1階前方の席だったので、幔幕の中しか観られなかったのですが、二階とか特に端の席から見ると、幔幕の後ろの桜並木の前でもみなさんがお芝居されているのが見えたらしいです。お光とすれ違った三世次が振り返って二度見するとか。

代官の土井茂平太をもてなすお花見の席。お文とお里はお互いがけん制し合いながら代官にお酌しようとしたりします。この辺りの姉妹の争いは子供の喧嘩のように可愛い。こんな可愛い喧嘩をしているのに、お互い相手をつぶして(殺して)やろうと思ってるんだというのもなんかすごいですね・・・。(相手に対する憎しみみたいなお芝居はなくて、ほんとに子供の喧嘩な感じなのに)

そこに気が狂ってしまったお冬が笑いながらやってきます。蜷川版の時は本当に裸が見えそうだったけど、さすが東京宝塚は狂乱で半裸という設定でもそこそこ着物はちゃんと着ています(笑)。お冬は何かのお花を持っていてそれをお文らに配り歩き(お文が悪女らしくなく、お冬から申し訳なさそうにお花を受け取ったりします)「棺が来た来た」の歌を歌います。(この曲は宮川先生が唯一なかなかメロディが降りてこなくて苦労した曲らしいですが、「恨み節」と解釈して生まれた曲だとか)

お里からお冬が服を脱ぐと聞かされて、見に行こうと席を立つ土井茂平太とつき従う一行。空になった幔幕におさちが茂平太を探しにやってくるが、不在なので困惑しているとそこに王次がやってきて、おさちをお光と思いこみ馴れ馴れしく話しかける。(シェイクスピアの「間違いの喜劇」)おさちにとっては無礼な男なので、おさちは王次を平手打ちするとそこから逃げ出す。一人取り残されて王次は「代官ごっこもいいけど熱演のしすぎだぜ」とむっとしながら、お冬が落としていった花を感慨深げに拾います。が、そこにお光がやってきて「王次」と声をかけるとその花をポイ捨て・・・・。切ない・・・。(そもそも王次はその花がお冬が置いていったものだと知らなかったのだろうけど)

お光はこの日初めて王次に会うので普通に話しかけるが、王次は先ほど無礼者と自分を殴ったおさちをお光と思っているので、仕返しにお光に冷たくし(代官ごっこだと言って)それにお光は怒り、幔幕から出て行ってしまうので、王次は慌ててお光を追いかけ、幔幕はまた無人に。そこへお冬の裸を見てきた代官の茂平太が「おさちも美しいがお冬も絶品だった」と鼻の下を伸ばして戻ってくる。そしてお酒が無いので「誰かおらぬか?」と酒を求めると、そこへおさちがやってきて、自分がお酒を持ってくるといいます。土井茂平太は「桜を口実にわしに会いにきたのだな」と喜びます。(これにはにかむおさち、やり手だわ・・・・私はお光的女子だから「はぁ?」って顔をしちゃうよ・・・)

おさちがお酒を取りに行ったので茂平太はまた一人幔幕にいると、そこへお光が「さっきは膨れたりしてごめんよ、仲直りしようね」と、中にいるのが王次だと思ってお酒を持ってやってきます。が、中にいるのが代官だったので慌てて「申し訳ございませぬ」と謝りますが、茂平太はお光をおさちと思っているから、ずいぶん早かったのうと言いながらお光にべたべたするので、お光は「およしなさいよ」と代官を突き飛ばします。(この辺が本当におさちと全く違う一途で潔癖なお光。相手は代官なのに)そして「あたしにゃ惚れた男がいるんだよ」と王次の名前を出したため、代官はおさちの情夫が王次と誤解し衝撃を受けます。そして去っていったお光を追って茂平太も幔幕を出て無人に。そこへお文が戻ってきて、代官がまだ戻ってないのねと思いながら、お里のお膳にゴミを入れたり唾を吐いたりします(子供か!)

そのタイミングでお里と三世次の客席降り&いじりが始まります。初日は大人しくXA席の前でのお芝居だったのですが、13日辺りからエスカレート、三世次はA列の前の通路を上手から下手に舞台を見つめながら歩き、下手ブロックのお客さんの双眼鏡を奪ってみたり、XCとかの空いてる席に座ってみたり、お客さんのパンフレットを奪って眺めてみたり。双眼鏡を覗いてびっくりして「妖術か」と言ったり、客席がマスクなのを見て「疫病か」と言ったり。鯛焼きを食べた回もあったとか。

その間、舞台ではお文とおさちが幔幕に。おさちのことをお光と思いこんでいるお文が「あんたが王次と一緒になれば義理の娘になる、だから紋太一家のことを笹川の繁蔵親分にとりなしてほしい」という会話をしていて、それを立ち聞きしたお里が、お光は花平一家から紋太一家に鞍替えするつもりだと怒り、三世次にお光を殺すよう命じます。

――と、いう場面ですが、戯曲と大幅に印象が変わった場面でした。

戯曲では「殺しの方はやらない」と断る三世次にお里は「まさかお前、そんな体でその顔で、お光に岡惚れしてるんじゃないだろうね」と言って、言葉に詰まる三世次に「だったら今のは取り消すよ(略)いくらなんでも好きな女を殺れとは、あたしにゃ言えない。いっそあたしがお光にお前の気持ちを伝えてやろうか」と言います。この台詞は今回のお芝居でも同じなのですが、ト書きに「三世次はお里をまともに見据える。いまにも血が吹き出しそうな恨みのこもった眼。やがて三世次は首を横に何度も振る」とあるのです。この戯曲を読んでいて、初日にお芝居を観た時に「あれ?ここ、ずいぶんさらっと過ぎたな」と思ったのですが、日々客席いじりが激しくなるにつれて、ああ、三世次の解釈が従来と全然違うんだと気が付きました。従来の三世次は本当にお光に岡惚れしていて、それをお里に醜いくせにとからかわれて恨みに思うのですが、(そして恋心を知られるくらいならお光を殺してしまおうと決意する)今回の三世次は女性に対して諦めがある、お光が自分のものになるとは全く思っていないのだと思います。容姿は好きだけど自分とは別次元の手の届かない人間。

だから今回の三世次はわりとこの部分軽く過ぎたのかなあと。それと同時に、お里さんも三世次が観客からものを奪った時に「すいませんねぇ」って感じで監督者として頭を下げていて、あなたたち仲良しじゃない!って思えて切ない。(この後三世次の策略で殺されるのに)お里さん、最初は三世次を不気味と思ったとしても今はそこそこ三世次のこと可愛がってると思うの。でも三世次、気づいてないよね。自分は嫌われ者なんだと思っている。お里が岡惚れってからかうのも、三世次が自分の醜さをネタにしてるからそんな悪気もなくネタにしちゃったんだろうな、今回のお里はという感じ。

舞台では、おさちから双子の話を聞かされてお文が、目の前の人物がお光ではなく代官の奥方のおさちだと知って驚き、よく顔を見ようとします。ここでおさちとお文の位置が入れ換わり、幕の後ろから立ち位置を頼りにお光を殺そうとした三世次は誤ってお文を殺してしまいます。おさちは驚き逃げ去り、三世次は幕の後ろから出てくると、殺したはずの女が逃げて殺すつもりのなかった女が倒れている、どじを踏んだのか?違う、運命がお光とお文の場所を入れ替えてたのだ、運命よ、うめぇ細工をありがとうよ、と感謝しながらお文の死体を隠します。

驚いて逃げたおさちが人を呼んできた時には死体はなく、しかし血痕が幕に残っていたのでまた皆が驚き逃げると、そこに茂平太と九郎治が帰ってきます。さらにお光と王次もやってきて、茂平太の前でいちゃいちゃするので衝撃を受ける茂平太。九郎治はお代官がそんなにお光にご執心なら、うまい機会を段取りしますと気を利かせたつもりで提案すると、怒り狂っている茂平太によって斬り殺されてしまいます。

いちゃついていた王次とお光は異変に気が付き、王次はお光を慌てて逃がし、代わりに茂平太に刺されます。「お代官様よ、おれはあんたに礼を言わなくちゃ。・・・目の前が暗くなってきやがった。おれ、生きているのか、死のうとしているのか、それが問題・・・じゃねぇや、おれは死ぬんだ。わかりきってらぁ」と言って、幔幕によりかかり、幕と共に(幕に包まれて)倒れて死にます。(これ、2日目は幕のかかっている柱も一緒に倒れそうになって、慌てて通行人?役の方がキャッチしました。その後、幕が柱から外れやすく改訂された?)

ここなのですが、戯曲と大きく違う部分があります。王次の台詞で「あんたに礼を言わなくちゃ」の後に、戯曲では「叔父貴の九郎治はおれの親父の仇なのさ。よく斬ってくれた」という台詞があるのですが、今回の舞台ではこれがカットになっています。それによって礼を言う内容が大きく変わっています。戯曲だと代官が九郎治を斬って仇を代わりに討ってくれたことに感謝し、また、王次が仇打ちをまだ考えていたことになりますが、今回の舞台では台詞のカットにより、戯曲未見の観客にとっては「俺を殺してくれてありがとう」という解釈になると思います。つまりは王次は死にたいと思い悩みながら死ねなかったこと、そして仇討ちはもしかしたらもう念頭になかったのかもという解釈。藤田さんはこの台詞を削ることで、王次の人物像を変えてきたのでしょう。今まで能天気に見えたり、決断や切り捨てが結構早く思いきりが良いように見えた王次が、実は本当に死を考えるほど悩んでいたのかもしれないという二面性を表わしたのでしょうか。

この騒ぎにおさちも戻ってきて、初めてお光とおさちが同じ場に揃い、茂平太もおさちと思っていた女性が別人であったことに気が付きます。(お光は熊谷さんが影武者でやっていて、おさち役のふうかさんがお光と抱き合いながら、腹話術のようにお光とおさちの台詞を話します。しゃべり方も変えないといけないのでなかなか難しい場面だと思いました)

三世次もここに来て、閻魔堂の老婆が言っていた、ひとりでふたり、ふたりでひとりの女というのがお光とおさちであることに気が付きます。ひとりでふたりの女なんて存在しないと思っていたものが存在したので、ここで初めて、三世次があの老婆の予言を信じるようになり、ここから相対化の世界で生きてきた三世次が絶対的なもの(神とか)の世界に踏み出し、破滅が始まります。そしてその女と深間に嵌るなんてことも、女と深い仲になるなどありえないと思っていたのが一転、そのいないと思われた女が存在したので、自分はお光かおさちと深い仲になるのではないかという希望を持ってしまったのでしょう。

お光とおさちの会話ですが、戯曲ではおさちが一方的に感動して双子の名乗りをあげているように見えます。お光の台詞も「・・・あたしだって同じ気持ちだった」となっていて、言いよどむというか受け身の感じに思えます。しかしこれが蜷川版のために井上ひさし氏が書きなおした台本には「・・・」が無くなり、普通の会話のようになっています。戯曲を読んだ時は、おさちは血のつながった妹に会えて喜んでいるけれど、お光の方はちょっとぶっきらぼうで、同じ双子なのにおさちは代官の娘として大切に育てられ、それに引き換え自分は任侠の家の娘として生きていかねばならなかった悔しさがあるのかなあと思ったのですが、どうなのでしょうか。(お光がリア王の場面で任侠を継ぎたくなかったとすると、やはりおさちのことを知ったら複雑な心境だと思います)

ここにおこまがやってきて、お冬の死を伝えます。「ハムレット」のオフィーリア同様の死の場面です。お冬は王次と同時に亡くなるというちょっとホラーな感じです・・・。

ここで!

三世次は下手の端に立っているのですが、おこまが語るお冬の死を聞きながら、すごく複雑なお芝居をしています。日によって微妙に違うのですが、目を潤ませてから深く考え込むように目をつぶったり、もしくは最後に自嘲するかのように笑ったり。これはどういうことだろう、三世次はお冬に同情してるのか?しかし同情するような性格でもないし関わりもないし、と、なかなかここの三世次の思いを掴むのは難しいのですが、可能性としては、存在しないと思ったひとりでふたりの女が存在した、ということは自分はこの清滝を手に入れて、その女と深い仲になって、破滅するということも現実になるのであろう、という思い、そこにお冬という狂気に陥った娘が死んだこと、その死に方が美しかったこと、自分がもうすぐ死ぬのを知らぬ気に明るい声で歌っていたこと、その死に自分を重ね合わせて、お光/おさちとの恋に狂って自分も死んでやろうか(畳の上では往生しない尋常じゃない死を迎える)、きれいに(きれいさっぱり?)明るく死んでやろうか、人なんていつ死ぬかわからねぇしな、ああ、そうやって死んでやったらすっとするだろうな、そんな風に考えていたのかもしれません。

そしてここから、三世次ののし上がる計画が加速して行きます。(今までは混沌の中でうまく立ち回っていい感じの地位にいけたらいいな、くらいだったのが、明らかに工作して人を陥れてのし上がって行きます)

 

と、1場面だけで5600字近くになってしまいました・・・その⑦に続きます。