★お気楽日記★

アリとキリギリスでは断然キリギリスです。 うさぎとかめなら、確実にうさぎです。 でも跳ねる趣味はありません。

「絢爛豪華 祝祭音楽劇 天保十二年のシェイクスピア」の感想⑤(シーンごと)

その④から続きです。

 

11.賭場のボサノバ

見応えのあるシーン。例の箱は二階建ての賭場の建物になっていて、一階ではお文が賭場に来たお客さんの刀を預かったり入場料?をもらったりしていて、女郎はスクワットしたりフェイスリフトしたりしていて、階段上がって二階の賭場では壺振りが壺を振り、着物を質に入れてまで博打をするふんどし姿の男性がいたり、皆さん細かい演技をされています。「丁か半か」という山野さんの低い声が印象的な「賭場のボサノバ」の歌が歌われる中、黒い着流しを着た女渡世人(実はお光)とすれ違った王次は、いい女だなというように振り返って彼女を見て、二人とも賭場に入ります。

そしてお光は壺振りのイカサマを見抜き、「私の言葉は決して外れないよ」と啖呵を切ると王次は「かっこいい!」と掛け声をかけて、観客から笑いが起きます。

すわ、賭場荒らしかと色めき立つお文と九郎治、この女渡世人がお光と気付いて驚きます。お光は家を出た後、江戸の剣術道場で1年修行し、その後(うし屋の後ろ盾の飯岡のライバルの)笹川の繁蔵親分に厄介になっていたということで、敵方だから賭場破りにきたのかと問うと、父が邪険に扱われていたという噂の真偽を確かめに来たと言うお光。そこでお文は「あのおいぼれに義理立てすることはない、お前は捨て子だったんだから」とお光の出生の秘密を明かします。お光は驚きながらも「生みの親より育ての親、あたしの大事なおとっつぁんなんだ。それにそう聞いたらあんたが(姉妹じゃないから)斬りやすくなった」と言い返しますが、肝心の刀を賭場に入る時に預けてしまっていてピンチ。

そこへ王次が「刀ならあるぜ」とお光に刀を投げてあげたところで、隊長が登場し「時よ止まれ」と叫んで時を止めます。(刀は空中で静止、人物も皆そのままのポーズで静止)

 

ここからは王次がハムレットからロミオとジュリエットの役割に変化します。女好きっぽい今までの王次だったら、カッコイイ美人のお光に惚れるのはありがちですが、いったんハムレット化した後では「父親の仇討ちは?」「お冬ちゃんのことはどうでもいいの?」「女性不信になったんじゃないの?」と疑問がわく場面(笑)。

ロミオとしての役割と見れば、ロミオもそもそも仮面舞踏会でジュリエットに会う前はロザリンド嬢にお熱だったのに、ジュリエットに会ったとたんロザリンドはどうでもよくなってしまうから、お冬を忘れてお光を好きになっても良いのですが・・・。(そもそもお冬は恋人ではなく「許嫁」なので、王次の好みじゃなかった可能性も)

 

ここでオフィーリアについて。シェイクスピアの書いた女性の中でオフィーリアは唯一と言っていいくらい自我のない、父親の言いなりの女性に描かれています。「尼寺へ行け」の場面も、私のうっすらした記憶だと、狂ったふりをしたハムレットに難癖つけられた可哀想な場面というイメージがあったのですが、実はそうじゃなかったようです。あの場面、父のポローニアスは他人の振る舞いの台詞までを決めたがる人物で、オフィーリアは父親の決めた台詞で(と明示されていませんが、翻訳者の松岡和子先生のエッセイに、原文の言葉の選び方をよく調べた結果、父が決めた台詞を彼女はそのまましゃべっていることに気付いたという話があります)父に言われた通りハムレットに探りを入れ、それはハムレットにとってはオフィーリアが敵方についたかのように思え、そこで冷めて「お前は貞淑か?」という問いかけになったのだそうです。この「貞淑」も原文では「honest」であり、女性に対しては「貞淑」と訳すけれど、男性であれば「正直」になる単語。ハムレットにとってはオフィーリアに裏切られた気分だったのでしょう。

とすると、今回のお冬も、王次にとってはぼろ安を屏風の後ろに隠しておいてさぐりを入れようとしてきた裏切り者と考えてしまったということもあるのでしょうか?(女性不信になっていた折りも折りで)(ただしオフィーリアと違い、お冬はハムレットを試すような会話はしていないが)

一方でお光は、父親に義理立てする筋の通った女性。その真っ直ぐさと強さが女性不信に陥った王次には響いたのでしょうか?(貞淑さでも、後に出てくるおさちと比べてお光は、もうちょっと上手く立ち回った方がいいくらい潔癖です。相手が代官でも触ってくればはねのけるような)

とりあえずこの場面の時点では、王次はお光を「いい女だな」と軽く一目ぼれ、お光は特に王次を意識はしていない、という状況です。

 

12.時よとまれ、君はややこしい

時が止まったということで舞台上の隊長以外の人物がみな静止している中、隊長によってお光の出生の秘密が説明されます。

20年前に双子の捨て子があり、当時の代官が善人で一人を自分が育て、もう一人を手代だった鰤の十兵衛にたくしたのがお光とおさち。代官に育てられたおさちは美しく成長し、若い求婚者には目もくれず、土井茂平太という五十歳近い中根家の用人と結婚したのだが、この土井茂平太が清滝村の代官となりまもなくこちらにやってくると説明した後、おさちをここに登場させてみましょうというと、女渡世人姿のお光のところに黒子がやってきて、素早く鬘の下げ髪を外し(普通の娘の頭になる)黒の着流しを取り帯を差し込んで、若奥様のおさちに早変わりします。

そしておさちは「私の胸」という歌を歌います。(歌詞は「私の乳房(略)わが夫のほか、他には摘まさじ」という感じのセクシャルな内容だけどメロディラインは綺麗)

そして歌いながら隊長の手を取って自分の胸元に持っていったりニコニコ微笑みかけたりするのですが、私にはこれが気になって・・・。歌い終わった後、隊長は鼻の下を伸ばして「おさちはまことに貞淑な新妻らしく見受けられます」と言うのですが、貞淑なのか、と。(色目を使うとまでは言わないけど)おさち、「凪のお暇」のまどかみたいじゃない?と。つまり場の空気を読んで男性にいい顔をしてセクハラも受け流して女子から男に媚びすぎって嫌われるタイプ。蜷川版の演出では、おさちは客席に降りて観客に向かって歌っていたのですが、今回はあきらかに隊長に向けて歌っている、これが隊長を夫と見立てているだけなのか、どうなんだろうなと。

さらに土井茂平太との結婚も、ここでは年が離れていても実直な男のように語られていて、そういう選択もあるだろうと思うのですが、二幕で登場した土井茂平太は、お冬の裸を見たがったり、酒樽の小判に釣られたり、よく言えば人間味があるけど、まあ女性から見て魅力的な人物には見えない。欲望まみれのおっさん。

おさちって、婚活女子か!?

(語弊。良い条件の男性を射止めることに狙いを絞った婚活女子という意味)

そう考えるとおさちもなかなか可哀想な立場で、自分が捨て子であった事を聞かされて育っているため、好きとかどうとかより「自分を捨てない(そこそこ大事にしてくれて)安定した家柄の男性」を選ぶことで生きていくしかなかったんだろうなと。五十近い土井茂平太(女好きの非モテ)なら、自分が愛想良く尽くしていたら捨てられないだろうという考えが働いていたのかもしれません。

 

13.焔はごうごう、釜はぐらぐら

舞台中央に大釜が据えられ、三世次に予言した清滝の老婆の仲間の、関八州の各エリアの老婆が集まり、焔は~の歌を歌いながらフクロウの翼などを鍋に投入(この歌詞は戯曲成立当初の社会問題を歌っているようです。濁った海のかたわの魚とか削られた山とか農薬とか)、闇鍋を作っています。そこに遅れてきた清滝の老婆が、清滝村で大量の血が流れそうだとワクワクしながら、王次とお光について報告します。報告にあわせて、人形のような王次とお光が登場します。人形浄瑠璃のように老婆たちに操られる、王次とお光。(お光は特に人形のお芝居が上手くて可愛い。王次は身長があるから人形にするにはちょっと大変だったのかも)

この仇同士の二人を恋仲にしたら見ものだと言って、老婆は二人に「浮気草」の汁を絞ります。これは「夏の夜の夢」の三色スミレ(惚れ薬)の場面。

老婆たちに浮気草を絞られて、お光と王次は恋に落ちることになります。(浮気草という名前と言うことは、王次がお冬からお光に浮気したっていうことなのかしら?)

 

14.王次よ、どうしてあんたは王次なの

舞台はまた建物の箱がセットされ、その前で王次がだらだらしていると、うし屋の若い衆が王次を取り囲み、花平一家に殴り込みをかけるべきと要求します。気乗りがしない王次はまたにしようとなだめますが、お光に(峰打ちだが)脳天を割られて兄を殺された若い衆が、殴りこみに行かないなら若親分が兄の仇だと言われ、今日は幕兵衛も不在だからチャンス、九郎治親分と姉さんから王次が殴りこみを渋るなら簀巻きにしろと言われていると騒がれ、王次は「味方に斬られるぐらいなら」と殴り込みを決意します。「お光を斬らなくちゃいけねぇのかよ。俺の恋はどれもこれもどうもうまくまとまらねぇな」と一旦嘆くも、「行くぜ!」とノリノリで突撃する王次。

ここから斬り合いが始まり、その様子を屋根の上から三世次がとても楽しそうにニコニコしながら見ています。屋根の上のみよにゃんこ。こちらも釣られて笑っちゃうくらい(赤ちゃんの微笑みか!?)可愛い三世次。そこに天井から(のちに王次がお光のところに飛ぶ用の)ロープが降りてきます。(初日はこの降りてきた段階で、三世次は不思議そうにロープを見上げたりしたのですが、数日後からは王次のジャンプ後に見るようになりました)

斬り合いを楽しそうに見ていた三世次、お光の姿を見るとすっと真顔になります。ここで三世次はお光を見染めたのでしょうか?

そんな三世次をよそに、お光は王次を見つけ、浮気草の効果で「王次!王次!」と急に人が変わり、「どうしてあんたは王次なの?」とここから「ロミオとジュリエット」のバルコニーのシーンになります。(お光が急におばかな感じになって、二人はバカップルぶりをアピール)ロープを使って一階の王次は二階のお光のところに飛びます。三世次はロープに気付き、不思議そうに何度も、蜘蛛の糸のように天井から下がっているロープを見上げます。この時、彼は天界からこういう助けがくるかもみたいなイメージを抱いたのかもしれません。(最期の天馬の場面に繋がる)

それと、この時お光に惚れたであろう三世次ですが、その後の王次とお光のバカップルぶりには(嫉妬と言う意味では)無反応です。自分の惚れた女が他の男に取られたという感覚はなく、最初から女性に関しては諦めてるんでしょう、この三世次は。

王次とお光は能天気に「好いた同士に」の歌を歌い、二人に裏切られたと他のものたちが二人を斬ろうと迫ったところに、九郎治、幕兵衛たちがやってきて、新任の代官が着任したため、争い事はまずいから手打ちにしようと争いを鎮めます。

ここで登場人物が動きを止めてストップモーションになっている中、屋根の上にいた三世次は怒りながら降りてきて「おれの書いた筋書き通りに王次は能天気になった。そこまでは良かったがその後はどうも万事がぐりはま。それというのもどいつもこいつも阿呆なせいだ。今年は阿呆の当たり年かね。阿呆どもの平和なぞ犬に食われてくたばるがいい!」といい、唾をぷーっと吐いて(霧のように見事でした。一生さん唾液多め。唾液の多い赤ちゃんは健康!)退場、一幕が幕となります。

なんとなくお芝居の時は自然に観てしまったのですが、これはどういうことなんでしょう?三世次の狙いは、花平一家について、紋太一家に争いの種をまいて(つまり王次が九郎治を殺すなり、お互いが疑心暗鬼に敵視するなり)弱体化させ、花平一家に勝たせるというものだと思ったのですが、いつの間にか王次が能天気になる(お光に惚れる?)という筋書きにしたことになっているし、王次がお光に惚れたのは三世次の作戦とは関係ないし、そもそもこの討ち入り、三世次が味方している花平一家の方が危なかったんじゃないだろうかと思うと、みよたん、ニコニコしてる場合じゃないよ!と思いました。単に殺し合いが楽しかったんだろうか、みよたん・・・・。

一方で王次、たしかに判断はすごく的確(クレバー)。三世次に乗せられて九郎治を討ちことに固執せず、九郎治と間違えてぼろ安を殺してしまった段階で(戯曲では台詞で九郎治と思ってと書かれているのですが、今回その台詞があったかどうか記憶があいまいになってしまいました)、仇討ちのチャンスを失った(自分が九郎治を狙っていたことがばれてしまった)と考えて、当面大人しくすることにしたのかもしれません。九郎治とお里が王次の謀反にどうして納得したのかわかりませんが、花平一家に討ち入らなかったら王次を簀巻きにする(殺す)という指示も、王次の動向を試すものだったのかしら?それらをわかった上で、惚れた女を斬ることになっても王次は討ち入りに出る判断をしたのでしょうか。(結局はお光も自分に惚れていることがわかり、討ち入りよりお光をとってしまいましたが)

もしくは三世次にとっては、両家の殺し合いは花平一家の若い衆が死んでくれたら相対的に自分の地位が上がるから歓迎で、王次が能天気になったというのは物事に頓着せず充分に考えない状況だとすると、母親が父親殺しをそそのかしたと言う事実を突き付けることで、王次が一旦は悩んだものの考えることを放棄して刹那的に生きるようになったということを狙ったということでしょうか?

なかなか解釈が難しい場面でした。

その⑥に続きます。