★お気楽日記★

アリとキリギリスでは断然キリギリスです。 うさぎとかめなら、確実にうさぎです。 でも跳ねる趣味はありません。

野田地図(NODA・MAP)「フェイクスピア」シーンごと感想④

  野田地図(NODA・MAP)「フェイクスピア」各場面の感想、続きです。

 

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 monoが目を覚ますと枕元にあの匣があり、この匣があるということは自分は夢を見ていたんだろう、「”山だ”、”降りるぞ”(またCVRからの台詞)下山しよう、僕が亡霊になる前に、この匣を息子に届けるんだ」とmonoは布団から飛び起きますが、「目覚める度にまたはっきりしてきた。息子はここにいるんだ、隣で眠っていたんだ」と気付いて隣の布団を覗きこみます。「パパ」と抱きついてくる楽(3歳)。

 

――と、二人、我に返って(それまでパパと3歳児だったのが)、これは恐山が見せる気の迷いで、昨日リア王コーデリアになったのと同じでばかばかしいと思おうとしますが、何故かそのように笑い飛ばせません。

 でも僕たちが父と息子だなんて、ないないない、と言いあっていると、上手からアタイとオタコ姐さんがやってくるのに気付き、二人はまた布団をかぶって寝たふりをします。

(ここで一生さんは膝を立てたまま布団に潜るのですが、なんでだろうなと思っています。ずっと布団をかぶっていると暑いから換気を良くしたいのでしょうか?←起き上がった時にすごい汗なので。他のアンサンブルの方は普通に足を伸ばして寝ています。一生さんは膝を立てるから、たまに足先まで布団が覆え無くて、足が丸見えの時もあります)

 

アタイとオタコ姐さんは、アタイが伝説のイタコの娘だという話をしながら歩いてきます。「ないないない」とアタイは否定しますが(先ほどのmonoと楽と同じ台詞)、オタコ姐さんは伝説のイタコがアタイの母だと言ったのを見たと主張します。

しかし、アタイは自分の母親は三歳の時に亡くなっていると反論します。

(これ、亡くなっているからこそアタイにとりつけると思うのですが・・・何でこういう台詞になったのだろう。「アタイのお母さんはイタコじゃ無かったです」とかではなく。まあ、話の都合上、ここで3歳で亡くなったという情報を出さないといけないからというのが大きいと思いますが。ただ、この後の会話で自分の母親がイタコだったかどうか知らないと出てくるので「お母さんはアタイが3歳の時に亡くなったので、イタコだったのかどうか知りません」的な台詞で良いんじゃないかと思うけど、どうなんだろう)

 

アタイがイタコ修行に来たのは死んだお母さんに会いたかったからであり、死んだお母さんはアタイがあまりにも出来が悪いからハラハラして見守っているうちに、自分が誰にでも乗り移れる有能なイタコになってしまったのではないかと推理するオタコ姐さん。

(この会話の最中に、布団で寝ていたイタコたちは朝を迎えてパラパラと目を覚まし、布団を畳みだす)

 

でもアタイに母が憑りついている時、アタイはどこに行ってるんだろうと疑問を持つアタイに、「あんたは消えるのよ、ばか」とオタコ姐さんが答えると、寝たふりをしていた楽が起き上がり「だったら、折角出て来たお母さんは誰に会えばいいんだ?」と言います。

そこなのよ、イタコだけが感動の再会が出来ないんだと嘆くアタイに、そんなにもお母さんに会いたかったんだなあ、という楽。楽も同じ境遇で三歳でお父さんを亡くしたから、一緒だ、って部室で盛り上がったじゃない、というアタイ。

それを聞いて「ああ……忘れてた…一緒だあ!…そういうことか……父を。ありがとう」と感慨深げに言う楽。オタコ姐さんが「でも何で今更呼び出したくなったの?」と尋ねると「たぶんあれだな、自殺する前くらい」とぽろっと言う楽。アタイとオタコ姐さんが驚いて言葉がないのを見て、「あれ?俺、なんていった?」と聞きます。

 

(死者であるmonoが記憶を無くしていて、何かの拍子に思い出すのはわかりますが、楽まで大事なことを恐山では忘れてしまっているのが気になります

自分の父親が三歳の時に亡くなったことや、自分が自殺しようとしていたこと、死ぬ前に父親に会ってみようと恐山に来たことなど、全部忘れていて。

自殺しようとしていた楽は、半分死者の世界に来ていたのか(だから死者の夢の中で記憶を無くし、目覚める度に少しずつ思い出す)、その楽の気配を感じて、永遠に目を瞑ったはずのmonoは目覚めて、二人でそれぞれの方向から恐山にたどり着いたのか

 

楽は、自殺しようとしていたのは妻(デズデモーナ)ではなく自分であり、そもそも自分は天涯孤独で妻も娘(コーデリア)もいない地下鉄職員だったことを思い出します。

退職してからもパンを片手に地下鉄のベンチに座って線路を見つめながら、飛び込むべきか飛びこまざるべきかと反問していたと。(オタコ姐さんが「地下鉄のハムレットね」と言い、やや笑いが起こる場面。ここ、楽の自殺願望の動機が書かれず希死念慮のような感じで処理されているので、人の死というヘビーな問題でありながら、大半の人には真実味が無くて笑いやすいのかも)

そして結局先にベンチの隣に座っていた男に飛びこまれてしまい、「人身事故でご迷惑をおかけしています」とアナウンスされ(その男の死は「ご迷惑」であると)、人々が舌打ちをするのを見て、誰ひとりその男の「死」を思わないんだと、なおさら死にたくなったと言います。

(この「死」を思うということ、のちにmono=プロメテウスの従兄が「死」を神から盗んで人間にもたらしたという部分に関係してくるのかも。「死」という概念を与えられて人間は初めて「死」に抗って生きようとするメメント森(違)(by怪奇大家族))

  

 

「その時、ふと背中を押された気がした」「え?飛び込んじゃったの?」「いや、ここに来るように、誰かが背中を押した。命を断つ前に、父と会っておけと」という会話をし、アタイは黒い目隠しをオタコ姐さんから受けとりながら、今日の昇格試験で楽のお父さんにのりうつるから、あなたはお父さんに会えるから、飛び込むなんてやめておけ、そう言われるよ、と請け負って、オタコ姐さんともども目隠しをしてうろうろと歩き去ります。

 

 そこでmonoは布団から起き上がり(ずっと布団をかぶっていたので汗が光ります❤)「もしも息子がいて、目の前で自殺をするなんて聞いたら、どんな気持ちがすると思う?」と言い、自分のここら(心)あたり(胸)をぎゅっと握って辛い顔をして「こんな気持ちだ。だからわかる。僕は君の父です」と言います。

楽と「パパ」「タノ」と呼びあい、「生まれてきた君の名前をはじめて呼んだ日のことを思い出した」と懐かしみます(monoの幸せそうな笑顔)。一方で楽は、パパと呼んだ日のことを覚えていないと寂しそうに。

 

「そしてこんな幸せな僕の記憶からいきなり悲しいお知らせです、楽」(この言い回し好き)「パパは亡霊だ。恐山の死者だ」「でなければ、この若さで君のパパのわけがない」というmono。

(ところでmonoの楽を呼ぶ「君」と「お前」の使い分けはなんだろう。最初は他人行儀に「君」だけど、子供の楽の記憶が思い出されてくると「お前」になるのかしら)

 

楽は自分の目にはmonoがはっきり見えているから生きていると反論しますが、monoは、見えるのは楽だけでイタコさんたちには見えていないと言います。アタイもイタコたちも黒い目隠しをしてうろうろ歩いていて、目が見えないことを表わしています。

それ(イタコは目が見えないこと)に気付いた楽が、何で自分が楽だってわかったかとアタイに尋ねると、声でわかったと。声が聞こえれば、そこに人が突然現れる。聞こえなければいなくなる。それがアタイたちの世界。生きていようが死んでいようが関係ない、声さえ出してくれれば、声がするからあっちが現れる、と。そう言ってイタコ達は去っていきます。

 

僕のことが見えているのはお前だけというmonoに、これは僕の夢?と聞く三歳児の楽。でなければ死者の夢だとmonoが答えると、そんな夢ないよという楽。

そこにシェイクスピアが現れて「死ぬ。眠る。眠る。おそらくは夢を見る。そこだつまずくのは。永の眠りにつき、そこでどんな夢を見る」と、「ハムレット」の一節(to be or not to beから続く一節)を唱えながら歩き、モスグリーンの防水コートをかぶった男たちが、探知機で地面から何かを探してうろつく。(日航機から落ちたCVRを探索する人々のイメージ)

 

「死者の夢は、醒める度にはっきりとして来る。そして本当に醒めきった時、僕は死者に還っていく。だから醒めきる前に、お前にこれを贈呈いたします」と言ってmonoは匣を楽に差し出します。

何が入っているのか聞く楽(3歳)に、「ホントのコトノハ、マコトノ葉。空からはらはらと落ちて来た言の葉、これを聞いて思い直しておくれ、今更自ら死ぬなんて」と言い、楽がワクワクしながら聞いてみてもいい?と匣を開けようとすると(愛おしげに見守るmonoパパ)、寝ていた三日坊主が素早くやってきてその匣を奪います。

 

唖然とするmonoに、下手からオタコ姐さんが走ってきて、泥棒~、そいつを捕まえて!と三日坊主を追い、monoは「そうか、僕は泥棒という言葉から逃げていたのじゃない。追いかけていたんだ。お前にあげるマコトノ葉を」と追いかけて八百屋舞台を越えて消えます。

舞台に、三日坊主とオタコ姐さんが走り込んで来て、舞台上をクロスするようにジグザグと、逃げる&追いかけて、「なんてね」「なんてな」と顔を見合わせてほくそ笑みます。三日坊主とオタコ姐さんはグルになった神様の死者で夫婦だったのです。

 

神様のコトノハを聞いてみようとするオタコ姐さんと、神様に返さないとダメ、これ、すごい手柄だからという三日坊主。

八百屋舞台の立っている板の影に、寝ているアブラハムがいて、烏たちと舞台奥に登場、三日坊主とオタコ姐さんが「(神様に匣を返しに行く時に)アブラハムは置いていこう(お手柄立てての退職金は夫婦水入らずの旅行代金にしよう)」と言っていると、慌てて飛び起きます。(オタコ姐さんは烏たちと、すっと山を越えて舞台上から消える)

 

飛び起きて「ひい、ふう、夫婦だったの」と呂律が回らない感じで言い、三日坊主に涎をふけと言われます。

俺が置いてかれる夢を見た、危なかった、でどこまでがホント?と聞いてくるアブラハムに、匣を手に入れたからさっさと下山しようという三日坊主。

どっちに下山するか、神様はどちらにいるかと二人が話しあっていると、ラッパーのバカ息子っぽいフェイクスピアが上手に現れ、「あ、じゃ、それ僕に届けて」とステップを踏みながら軽薄に言います。「それ、ほぼほぼ、僕のだから」と。

フェイクスピアが言うには、自分のパパが(コトバの)神様のシェイクスピアなので、この匣は相続権上、コトバの神様の息子の所有物。だから自分にはその中のコトバを聞く権利があると。

神様のところに持っていかないといけないから開けたらダメだと言うアブラハムたちを、この匣の声が「この匣を届けた二人は不届きものだから首を刎ねろ」というものだったらどうするんだと脅すフェイクスピア。

そんな意外な展開があるのかと驚く二人に、パパの知人でローゼンクランツとギルデンスターン(ハムレットの登場人物)という二人の使いの者は、お届け先で…(首をちょん切られた身振り)と言うフェイクスピア。(上手の端にアブラハムを追いつめながら)

そして「ローゼンクランツとギルデンスターン、アーブラハムとみっかぼーず」と無理やり同じイントネーションで名前を呼び、それを聞いて、同じ響きだと恐れるアブラハム。(あまりに無理やりなので客席から笑い)

フェ「でもそれが君たちの使命だったのかもしれない。時間泥棒の」ア「え~、俺たち、時間泥棒だったの?」三「嘘だよ、何、詐欺師が騙されてるんだ」ア「どこまでがホントなの~!もうやめて~!」という会話があり、フェイクスピアが「残念だけれど、今じゃそれがこの世の言の葉さ」と言います。

(時間泥棒と言えば、ミヒャエル・エンデの「モモ」ですが、主人公のモモがどこからかやってきて円形「劇場」に住みついた、記憶喪失っぽい?少女で、大切な時間を灰色の男たちに奪われて、人が時間に追われて人間らしい生活が出来なくなっていく(価値を失っていく)のを、主人公が取り戻す、みたいなストーリーだった気がするので、そこからの軽い連想で出してきた言葉でしょうか)

 

フェイクスピアは「言ったが勝ち。書き込んだが勝ち。それが今のコトバの価値」とラップで歌います。

(これは直球の、フェイクが横行しているSNS批判

そんな人間にホントのコトバ、マコトノ葉なんて必要ないと言いながら、下手で、フェイクスピアは三日坊主が持つ匣を手にしたい(聞きたい)と手を伸ばしますが、背の高い三日坊主は匣を高く掲げて触らせません。(ぴょんぴょん跳ねる野田さんに、客席笑う)

だから神様がこのマコトノ葉をこの世界から没収、と言いながらフェイクスピアが匣を奪いたいと三日坊主に足を引っ掛けて、OPのアンサンブルが倒れて木々(大木)が倒れたのを表わしたのと同様に(?)、三人はぱたーんと倒れて(三日坊主は腕を伸ばして、匣をフェイクスピアから遠ざけたまま)フェイクスピアは「誰も耳を貸さないこのマコトノ葉なんて、誰もいない森で倒れる大木の音のようなもの……な、その音を、聞いてみようよ」と二人をそそのかし、三人は舞台中央の前方で匣を囲んで蓋を開けます。

 すると匣から「がんばれ、がんばれ」という(monoの)声が漏れ、慌てて蓋を閉めます。なに、今の?と恐る恐るもう一度開けると「どーんといこうや」と。

え?今のが?もっと感動的なコトバだと思ってた、これをマコトノ葉だと信じて、君に相続させようと思っているコトバの神様?お前のパパ?ってボケてんじゃない?と言うアブラハムと三日坊主。客席からは笑いが起きます。

 

この辺りから、気付く人は気付いてきたかと思います。これらの台詞が日航機事故のCVRの言葉で、結末は日航機事故の話につながるだろうということに。特に「どーんといこうや」は当時そこだけ切り取られて独り歩きし、物議を醸した有名な台詞だったようで(後に劇中でも「どーんといこうやと言ったから人殺しと言われた」と出てきます)それに気付いてしまった人は、この辺りから笑えなくなっていると思います。逆にそこまで詳しくなかったり、日航機事故のことを知らなければ、このシーンは3人のコミカルな動きで笑える場面です。

 

「その通り!シェイクスピアの言の葉が、誰もいない森に置いてかれた。置いて、おいて、老いて……枯れてしまった。その言葉の森の腐った土から、代わりに生まれ育ったのが、新たなコトバの神様、ディスイズ、フェイクスピア」とフェイクスピアは言い、ラップに合わせて「言ったが勝ち、書き込んだが勝ち、高得点が勝ち、それがコトバの価値。フェイクの価値」と歌います。三日坊主やアブラハム、烏たちもラップで囃します。

 

ラップが終わり、フェイクスピアが「この匣の中にあった、神様のマコトノ葉は……誰もいない森に……置いてかれてる。マコトノ葉は、置いて……おいて……老いて……枯れてる」と暗く呟くところにmonoが走りこんできて、匣を返せ!とフェイクスピアと匣を取りあいます。

第一、この中から聞こえてくる声は自分の声だというmonoに、「がんばれがんばれ」なんてだっせぇとバカにするフェイクスピア、何でそれが神様のマコトノ葉なんて呼ばれてるんだ?とアブラハム、こっちが聞きたいと言うmono、お前が神様から盗んだからだと言う三日坊主、盗まれたのは僕、君こそ目の前で盗んだだろうと抗議するmono、それは神様のコトノハを取り返すように烏に言われたからだと三日坊主。言いながら匣をめまぐるしく奪いあいます。

 

そしてフェイクスピアが、monoを神様の裁判所に言葉ドロボーの罪で訴えると言います。monoは、その匣に入っているのは空で発した自分の言の葉で、それを白い烏が神様のところに持ち去ったのが始まりだと抗議すると、そこに白い烏がやってきて、匣を奪い、八百屋舞台の上に走り、また両手で匣を持って左右に揺さぶって飛ぶ仕草をします。今度はトランクが八百屋舞台の上から下に転がされます。

椅子やトランクが落ちるのは日航機事故の暗喩でしょう)

monoが「持っていくな、白いカラス、それは江の島海岸の弁当箱じゃないぞ」と叫びます。

(この台詞、最初はmonoは客席に背を向けて白い烏に対して言っていたのですが、千秋楽間際には、客席に向けて言うようになりました。背中を向けてばかりいるのはもったいないから、観客に顔を見せようという変更かもしれません)

白い烏は神様の裁きがまもなく開かれるが、自分はmonoの弁護人に雇われているバイトの烏だから安心しろと言い、また匣を放り投げます。

 

「どこに落ちた?」「また死者の夢の中か?」と烏たちが言い、そこにヘリコプターのSEと共に、またモスグリーンの防水コートをかぶった男たちが探知機で地面から何かを探してうろつき、「いや、山の中だ!」と言います。

「山だあ!山の中だあ!」「この辺りなのは間違いないぞ」「くまなく探せ、枯れ葉の下も」と探し、そこをmonoが八百屋舞台の頂上に駆け上がって舞台から捌け、烏たちはmonoを追い、またmonoが舞台に走り込んで来て「また同じところにやって来た。僕はこの死者の夢から出ていけないのか」と言い、苦しげに膝をついて頭も落として額ずくような格好で、気を失いそうになりながら「この膨大なフェイクの枯れ葉の中から、あのたった一枚のマコトノ葉を探すことができるだろうか……できる!あの子に遺すんだ。あのハッパを、言の葉を。の最後のひと葉を。そう、あれはの遺言、がんばれ、がんばれ……気合を入れろ……頭を上げろ」と苦しげに自分を鼓舞します。

 (一人称が「私」と「僕」が入り混じっているのは、「私」は冒頭の神様monoの「私」、「僕」はmonoパパの「僕」なのでしょうか。一生さんが2番目の神様の場面(息子の形見かもしれない匣を開ける場面)で声色を入れ替えていたけど、それは神様monoの視点とmonoパパの視点の変化なのか。それとも、CVRがmono一人のものではない、アブラハムや三日坊主やオタコ姐さんら死者のものでもあるので、主語が複数あるという意味もあるのかな)

 

初日に自分がどの辺りで結末が日航機事故の話だと気が付いたのだっけと考えると、たぶんここの場面だった気がします。

頭を下げろ、頭を上げろくらいしかCVRの言葉の記憶は無かったのですが(有名な「どーんといこうや」は知らなかった)山の中の探知機と、ヘリコプターのSEで結びついたような気がします。

それにしても我ながらずいぶん勘が良いなあと思ったのですが、ちょっと変なことを言うと、これってテレパシーとか百匹目の猿現象的なものがあったのかもしれない

日航機事故の記憶が鮮明な方は、「がんばれがんばれ」「どーんといこうや」で気付いていただろうし、フルハウスの劇場という空間での共同体験で、空気感で伝わったものがあったんだろうな。(これ、収容人数50%だったらここまでの感覚は無かったかも)

今回「フェイクスピア」は野田さんにしては結末がわかりやすい、「頭を上げろ」というエールが直接的と言う声もありましたが(否定的な意味じゃなくてね)、もしかして野田さんのやりたかったことは、「演劇は無観客でやればいい」と言った人たちに向けて「バカなこと言うな」と、劇場で密で芝居を観ることでの空気感、観客を第三者ではなく当事者として舞台に参加させることだったんじゃないかなあ(そのためにラストは「頭を上げろ=生きろ」というシンプルなメッセージにして。まあ「生きろ」も言いたかったことではあると思うけれど)と思いました。

 

続きます。

 

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