★お気楽日記★

アリとキリギリスでは断然キリギリスです。 うさぎとかめなら、確実にうさぎです。 でも跳ねる趣味はありません。

「絢爛豪華 祝祭音楽劇 天保十二年のシェイクスピア」の感想②(シーンごと)

その1では全体的な感想を書きましたが、ここからはシーンごとの描写&感想をわちゃわちゃと書き連ねて見たいと思います。長文です。単なる防備録とも。(すでに記憶があやふやになっていますが)

この舞台をご覧になられた方はあのシーンはそうだったそうだったと思い出していただき、残念ながらご覧いただけなかった方で、円盤が出るまで待てないから少しでも舞台の雰囲気を感じたいという方は、こちらからご想像下さい。(実物観る前に変な先入観入ってしまうかもしれませんが、まあ秋発売までにこんな駄文の内容はきっとお忘れになるだろう)

 

(あと記憶違いとか多発するかもしれないのと、私は三世次しか観てないので、シーンの描写に著しい偏りがあります)

 

<一幕>

0.前口上

開始前にブザーが鳴るとか客電が落ちるとかがなく、すっと出てきた着物姿の男性が2人、舞台の上手下手にそれぞれ後ろ向きに立ち、舞台わきに設置された字幕モニターを下から上にめくる仕草をして、タイトル表示、いきなり始まります。(客電は始まってから徐々に落ちる)

上手から進行役でもある、百姓隊隊長の木場さんが登場、幕が下りている舞台の幕前の中央に講談師のように座り、前口上を述べます。

初日は、年末に70歳になられたお話から子供時代にお父さまが車を買った、その車はコロナだった、という話で笑いを取りながら(ここの部分は日によって変化しました。最初の頃はコロナの話題が多かったのですが、後半は乳酸がたまってきたというようなお話に)天保十二年のシェイクスピアは(出っ歯、いや失礼、前歯が少しお出になった)井上ひさし氏によって、このような趣向で書かれたという説明をされます。(井上ひさし氏の出っ歯いじりから後は毎公演同じ)

 

1.もしもシェイクスピアがいなかったら

そして幕が開くと、2階建て(+屋根の上)の建物を表わす可動式の大きな箱が2つ、この箱はある面は建物の中を見せ、違う面を向けると障子をあける座敷があったり、と回転させたり動かすことでいろんなシーンに対応します。

このシーンでは1箱の一階部分に3人、二階に3人、屋根に1人(のセットが2つ.建物の外にもいらっしゃったかな)女郎や百姓が立っていて、みんなで「もしもシェイクスピアがいなかったら」の歌を歌い踊ります。宮川先生の音楽が素敵。(音楽の素養がゼロなので、音楽に関してはまったく描写出来ずすみません、東宝さんサントラ出してください)

この歌っているアンサンブルのメンバーにさりげなく、佐吉役の木内さんがいらっしゃいます。(お冬の熊谷さんもいらっしゃったかな? 3の女郎たちの場面だったかな)

「大入り袋の出しようがなくて~♪」の部分でみなさん懐から大入り袋を取り出し、隊長は自分の大入り袋を客席に投げます。(あの大入り袋欲しかったな。日付と木場さんのお名前入り。千秋楽はXCのど真ん中だったから狙えたのに。。。しくしく)

 

2.傍白三人娘

セットが回転して隊長が一人残り、これからの舞台となる清滝村の説明をします。木場さん、かっこいいし台詞も聞きやすくわかりやすいので、蜷川版天保の時にも思いましたが、とても重要な役どころが木場さんでよかったです。

セットは座敷に回転し、「リア王」をモチーフにした場面が始まります。

清滝村を支配している侠客の鰤の十兵衛(ブリ、テン→ブリテンの王から命名)、三人娘のお文夫婦、お里(リア王のリーガン→リ、里)夫婦、お光(リア王コーデリア→コウ、光)が登場、十兵衛の身上を一番孝行な娘に譲るという、リア王モデルの場面です。(お文の役がゴネリルなのですが、ゴネリルがどうしてお文という名前になるんだろう)

お文さんの着物が艶やかで好きでした。

日本髪の鬘もちょっと漫画っぽいし、髪色が紫がかったり茶色がかったりして可愛いです。

この場面、傍白で本音を観客に向けて吐露し、建前は普通の台詞で言うという応酬なのですが、初日に観た時に、蜷川版より切り替えがわかりづらいなあと思いました。蜷川版の方が本音(傍白)と建前のメリハリがあって本音と建前の区別がつきやすかったように思います。(そして新感線版では本音(傍白)は音響でエコーを入れて区別していた用な記憶)

最初は4時間を3時間35分に縮めることで巻きになって、本音と建前の切り替えの前に一拍置きづらいからかしら?と思ったのですが、どなたかの感想で「二面性というテーマのため、本音と建前の区別もわざとあいまいにしている」とあって、そういう演出意図もあったのかもしれないですね。

公演後半になるにしたがって私の耳が慣れたのかもしれないですが、お文とお里の本音の応酬もテンポ良くて面白く観られました。

リア王同様、長女と次女は父親を本音では嫌悪しながら、口先では大仰な親孝行を述べ、末娘だけは父親を愛していながら口下手でおべっかが言えず勘当されるという流れの場面ですが、末娘の真心を誤解していたリア王と違い、天保では父と娘の思いが掛け違って、出て行けと脅したらもっと大きなことを言うだろうと思った十兵衛の言葉を真に受けてお光が出て行ってしまうというお話になっています。

――と、戯曲も読んで、蜷川版も円盤観て、素直に「リア王の場面ね」と思っていた私。

ところがパンフレットの対談の中で木場さんが「実は出て行きたかったんですよ彼女(お光)は。任侠の跡取りになんてなりたくなかった。つまり井上さんは、傍白は本音という前提をここで自ら覆しているんです」とおっしゃっているのを読んで「ええええ??」ってなったのですが、底の浅い私にはこの仕掛けがやはり読み取れないです(笑)。でも木場さんがおっしゃるのだからこの場面はそういうことなのでしょう。お光は跡を継ぎたくないからわざとありきたりな孝行しか言わなかった。後に父親の仇討ちに帰ってきたことからすると父親のことは愛していたのだろうけど、任侠という家業はつくづく嫌だったということでしょうか。この時お光は17歳。父親によって身を売らされた姉たちが36歳と29歳なので、ともに18歳の時に人身御供になったとすると、お文の時は生まれていない(というかお光は捨て子だったので引き取られていない)として、お里の時が6~7歳。その時は意味がわからなくても今となっては姉のさせられたことを理解しているか、もしくは姉たちから恨み事を聞かされたこともあったか、それでこの世界が嫌になっていたのでしょうか?(もしくは、お光は読み書き算盤も剣術も習わされたら見識が広がって、姉たちのことが無くても任侠なんて嫌かもしれないですね)

そしてその前提があると、後にお光が双子の姉のおさちに出会った時の心境も、なかなか複雑だっただろうなと思います。(後述)

「こう出りゃ、そう出たか。ありゃりゃりゃりゃだなあ」という十兵衛の台詞、「コーデリア」と「リア(王)」の駄洒落ですが、辻さん一生懸命伝えようと発音されてました(笑)。

 

3.おとこ殺し腰巻地獄

また舞台の箱を動かし、向かい合わせに斜め(ハの字)に置くことで、街道に向かい合って立つ旅籠(と奥から続いてくる街道)を表現。

隊長が、あっという間に3年たち、今は天保十二年、お光がいなくなったので仕方なく十兵衛は身上をお文夫婦とお里夫婦に分けたこと、二組は仲が悪く、それぞれ旦那の、よだれ牛の紋太(もんた、牛=ぎゅう、でモンタギュー)一家と代官(=ダンカン)手代の花平(はなへいと読むがカヘイと読むとキャピュレットのもじり)一家と名乗ってお互い憎みけん制し合っていることが語られます。(「ロミオとジュリエット」のモンタギュー家とキャピュレット家、「オセロー」の殺される王の名のダンカン)

それぞれの旅籠の前に女郎や若い衆がいてにらみ合い、それぞれの旅籠の中からお文夫婦、お里夫婦が出てきてにらみ合って、はけていきます。奥の街道から来る旅人達をお互い自分の旅籠の客にしようと奪いあい、女郎は「いきなこしまき」の歌を歌い踊ります。

そして女郎たちはそれぞれ客を捕まえて旅籠に入りますが、一人大柄な女郎だけが客がつかず花平の旅籠の前でぽつんと残されます。そして旅人たちがやってきた街道の入口(舞台中央奥)に隊長と共に紅い着物の三世次が(旅人達に隠れるように)後ろ向きに立っていて(いきなこしまきの歌が終わる辺りですっと出てくる)、そこから舞台前方に進み出ての第一声が「清滝か」。

この声が普段の高橋一生さんの低音で知的なイケボではなく、高めの声で投げやりにも卑屈にも子供っぽくも聞こえるトーンで、高橋三世次を表わす声でした。

そしてそこから、自分の父がここの百姓だったが無宿者になってしまい、自分もそれを引きついで無宿者だったこと、無宿人狩りで人足寄せ場に叩きこまれ、水桶を落とし脚が不自由になったこと、島抜けしてこの父親の里に転がってきたという半生が語られます。

蜷川版の脚本から変更されたところに、台詞を短くする意味もあったのかもしれませんが、人足寄せ場で顔の火傷を負ったという説明台詞がカットされ、三世次の顔の醜さが後天的に負ったものなのか生まれつき醜かったのかがあいまいになっています。(そもそも火傷という説明もない)

後天的に負ったものだとすると、人足にならざるを得なかった自分を取り巻く環境に恨みがある感じが出ますが、生まれつきだととらえた場合は、それゆえに愛されず自己肯定感も低いのかもしれないと感じます。(三世次のモデルのリチャード三世は醜く生まれたがゆえに母親にも疎まれています)

また、戯曲には三世次の醜悪な姿にひるんだ女郎を平手打ちにするというト書きがあったのですが、今回は悲鳴まであげられても暴力は振るわず、傷ついた恨めしそうな顔をするだけになっていて、これも一生さんの三世次のキャラクターを印象付けたと思いました。観る人がつい可哀想に思ってしまう三世次。

(と、初日の頃はそう思ったのですが、実質上の千秋楽となった27日の公演では、この場面で三世次の表情に傷ついたというよりは怒りが見えました。まさに天保十二年と同じような娯楽の規制が起きたことにより、お芝居の方向が「怒り」にややベクトルが向いたのかもしれません)

 

三世次は生い立ちを語った後、清滝で二組のやくざが反目していることに喜び、この争いをいっそう煽ることで漁夫の利を得て「どこかの浅瀬に浮かび上がることも夢ではない」と喜びます。のしあがってトップを取るのではなく、浅瀬に浮かび上がることが夢ではないという、虫けらが見る夢。(老婆の予言が無かったら、清滝でそこそこ親分の右腕で見下されずにご飯食べられたら良かったのかな、三世次)

 

そこからお茶を引いていた女郎を抱きながら歌う「三世次のブルース」、初日は「難しそうな曲!」とちょっとハラハラしましたが、数公演後には三世次の言葉として歌いこなしてらっしゃいました。好き。

 

と、頭の悪い感想は置いておいて。

ここは三世次の生きるやり方を宣言する歌です。「全てを相対化」。

ポスターで十字架を背負ってキリストを暗示していた三世次ですが、絶対化である宗教と正反対の相対化した時にはじめて行く(生きられる)のだと。(相対化で生きられる三世次が絶対化して行くから死んじゃうんですね、きっと)

三世次はこれまで、相対化して全てを客観的に見て、場の空気を読んで上手く立ち回って生きるしかなかったのでしょう。

(そして二面性がテーマであることから、表と裏の対になるキャラクターが天保には存在しますが、双子のお光とおさちと共に、三世次と王次も対になっていると思います。「きれいはきたない」とその場を支配する相手次第で空気を読んで意見を変えないといけない立場で生きてきた三世次とは逆に、王次は「善か悪か問題だ」と絶対的にどちらかを選択しなくてはいけない立場の人間なのだなあと)

ちなみに「きれいはきたない」は「マクベス」の魔女が言う台詞。“Fair is foul, and foul is fair.”が原文で「良いは悪い、悪いは良い」とも訳されます。善人にとっては悪徳でも魔女にとっては美徳という、価値観が絶対的なものでないこと、また、マクベスにおいては塞翁が馬のように、良いことが原因となって悪いことが起きる、栄華と凋落を暗示する言葉でもあります。

 

長くなってきましたのでその③に続きます。